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タグ「記憶」

フォトアルバム”プリピャチ”

タイトル:フォトアルバム”プリピャチ”

所収雑誌名:(ウクライナ語とロシア語) 1976年、1986年

キーワード:写真術、メモリ、プリピャチ

概要:

URL: http://pripyat-city.ru/books/57-fotoalbom.html

http://pripyat-city.ru/books/174-pripyat-fotoalbom-1976.html

チェルノブイリの第六感:常に存在する意識のシンボリズム

タイトル:チェルノブイリの第六感:常に存在する意識のシンボリズム

著者:フィリップスS. D.

典拠:Anthropology and Humanism、29巻、2号、159‐185頁、2004年12月。

doi: 10.1525/ahu.2004.29.2.159

キーワード:チェルノブイリ、ウクライナ、記憶、シンボル、博物館

概要:本稿では1986年のチェルノブイリ原発事故における象徴的な生について検証する。チェルノブイリの象徴はリソースのセットとして機能していると考える。すなわち、それらは記憶を生産するとともに、新しい社会を作るための根拠となっている。本分析は、学術的、大衆的言説、文学、博物館におけるチェルノブイリの諸表現に基づいている。具体例と集団記憶に関する議論を通して、災害体験を共有する人々の間でチェルノブイリが第六感のようなもの、あるいは「意識・プラス」を生み出していると主張する。

URL:http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1525/ahu.2004.29.2.159/abstract

チェルノブイリの不快な遺産とダークツーリズム

タイトル:チェルノブイリの不快な遺産とダークツーリズム

著者:ペレスJ. R.

典拠:A Reader in Uncomfortable Heritage and Dark Tourism、メリルS., シュミットL.編、ブランデンブルグ工科大学コットバス校、建築保全学部、2008-2009年。

キーワード:記憶、エッセー

概要:2008年10月から2009年3月のブランデンブルグ工科大学コットバス校建築保全学部は「ダークツーリズムと不快な遺産」と名付けられた研究プロジェクトを開催した。その目的は、ダークツーリズム研究というサブ・ディシプリンの近年の発展に基づき、遺産研究というデシィプリン内における不快、困難あるいは要注意の遺産サイトの成長と現時点での重要性を確認し、認識を発展させることである。…本文より「私が初めてチェルノブイリという名前を聞いたのは14歳の時だった。メキシコ育ちの少年の常として、ウクライナはもちろんソ連のニュースに多く触れることはなかった。私のお気に入りのシンガーソングライターの誰かの短い詩の中だったが、20行ほどの中に『チェルノブイリの空のように暗い』という表現があって、愛から疎外された残酷な状況を表していた。研究を重ね、私はチェルノブイリの原子力発電所で恐ろしい爆発が起こり、広範囲、長期に渡っておぞましい結果をもたらしたことを学んだ…」

URL:http://www.urbain-trop-urbain.fr/wp-content/uploads/2011/04/UHDT_Reader-allege.pdf#page=32

過剰暴露:デビット・マクミランのチェルノブイリ写真

タイトル:過剰暴露:デビット・マクミランのチェルノブイリ写真

著者:トッドキルA. M.

典拠:CMAJ、2009年5月29日、164巻、11号、1604‐1605頁。

キーワード:写真、記憶、カナダ、博物館

概要:1994年から6か月間ウィニペグの写真家デビッド·マクミランがチェルノブイリ立入禁止区域を訪れ、現代のポンペイの孤独な崩壊を一連の画像に記録した。現在それはオタワにあるカナダ現代写真博物館の永久コレクションに収められている。

URL: http://www.cmaj.ca/content/164/11/1604.full.pdf
http://www.dsmcmillan.com/chernobyl/photographs/

政治的象徴、記念碑そして式典におけるチェルノブイリの余波:ベラルーシにおける大惨事の想起

タイトル:政治的象徴、記念碑そして式典におけるチェルノブイリの余波:ベラルーシの大惨事の想起

著者:カスペルスキT.

典拠:The Anthropology of East Europe Review、30巻、1号、2012年。

キーワード:ベラルーシ、チェルノブイリ事故、原子力災害、記憶、政治

概要:チェルノブイリ原発事故からの健康および環境への被害がなお続いているにも拘らず、放射性降下物の被害を最も受けた旧ソ連の共和国であるベラルーシの現代の政治状況において、この悲劇的出来事はあまり重視されていない。大惨事に関する公の記憶の脆弱さを理解するために、本稿では、1990年代末までの野党勢力および州当局によって組織されたくつかの記念式典、そしてベラルーシにおけるチェルノブイリ事故に捧げられた記念碑の分析を行う。その結果、それらのさまざまな記憶の形が、この事故を諸々の国家的悲劇の中ひとつの悲劇という枠組みの中に押し込むことにより、あるいは政敵を攻撃し自身の力への願望を正当化する単なる手段としたことにより、あるいはできるだけ早く克服すべき対象と示唆することにより、その特異な意義を消し去ってしまったことが分かった。

URL: http://scholarworks.iu.edu/journals/index.php/aeer/article/view/2000

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